蜜声・睦声
 〜大戦時代捏造噺

  



        




 七郎次という小粋な名を婀娜
(あだ)にも感じるほどに、確かに見目のいい青年である。奥深いところへと沈めた白が透けているかのような、そんな不思議な色合いの肌をしており。どなたを真似てか伸ばしているらしき金の髪は、されどしっとりとした瑞々しさを保っての指通りのいいままで。水色の光を集めたような青玻璃の瞳に、意志の強さと品格を滲ませた形のいい口許。すべらかな頬や顎はまだまだ幼さを残しているものか、たいそうなめらかで線も細く。幼いと言えば体躯の厚さや充実ぶりにも、今少しという未成熟な危うさが仄かに覗くが、ままそちらはそのうち満つること。粛々と清楚に収まっていても、凛と冴えて清冽な風貌のその端麗さを隠し切ることは果たされず。先々ではさぞや嫋やかな美丈夫になろうことを偲ばせるばかり。

  ―― そんなところをどう受け取るものか

 かつてのいつぞや、彼らが出会うこととなった巡り合わせの、言わばその発端となったともいえよう、とある騒動を起こしかかってくださった、そりゃあ色好みだった某 華族出の“破廉恥”准将様の他にも。彼へと目をつけていたらしき悪い大人たちは、実を言うと 枚挙の暇がないほどおいでだったらしくって。跳ねっ返りな彼のこと、身分的に対等な相手からの揶揄やちょっかいへは、容赦のない拳や蹴りやで制裁・撃退してもいるようだけれども。上官であり、成り行き上、彼を自分の寵童であると公言した形になっている勘兵衛へ、露骨に“譲ってくれぬか”と言って来る大うつけまでいたのへは、隊長じきじき、一応 容赦なく鉄槌下して差し上げていて。郷里へ戻れば妻もいるよな、自分よりもずんと落ち着いた年頃の実直そうな軍人が何をか言わんと。顎ひげさすって唸りつつ、勘兵衛が呆れたのは言うまでもなく。

 “…罪作りなことよの。”

 このような華美端麗な風貌に生まれついたのも、それが人の眸を数多
(あまた)引くほどの存在感を培うだけの、そりゃあ健やかな育ちをしたのも。彼には何の作為も罪もないことと、それは重々判っているのだが。それにしたって…無自覚のままで誰彼選ばず惹き寄せてしまうほどの魅惑というもの、その身へ生き生きと備えた人物、久々に見たものよと感嘆を禁じ得ぬ勘兵衛であり。しかもその麗しの佳人はといえば、

 「…。////////」

 どれほど砕けても やんちゃに振る舞っても消えはしなかった、品さえあった玲瓏さはどこへやら。敷布の上へとその金絲を無造作にも散らし広げて。触れた手の跡が残りそうなほど清かな肌を、今は上気させてのほんのりと赤く染めており。組み敷いたしなやかな肢体が、時折ひくりと震えては引きつけるような身じろぎをし、切れ切れに零れる吐息の音は微かに掠れて痛々しくもあることが、哀訴の響きと聞こえなくもなく。今にも萎えてしまいそうになりながらも、こちらへ懸命にすがりついて来る指の力がなかったならば、自分はどれほどの酷い仕打ちをしているものかと錯覚してしまいそうになる。

 「あ……。////////」

 脾腹や内肢や、まだまだ柔らかで瑞々しいところの多い肌を、そこから何をか引き出さんとするかのよに、ゆるりと撫でての愛でてやれば。さして巧みなことをなしている訳でもないというのに、きゅうと眉寄せ、白い背をしならせ。こちらの肩へ しゃにむにしがみついて来、甘い熱を孕ませた吐息を零して唇を濡らす。どれほど甘いかと啄めば、そのやわらかさには際限がなく。いっそ毟りとっての喰い尽くしてしまいたくなったほど。むさぼり足りぬがそれでもと離れ、混じり合うよに吐き出された吐息へ、

 「きついか?」

 訊くと。ゆるゆるかぶりを振るものの、上になったこちらへと伸ばされた腕は、もはや何度も何度も落ちそうになっており。あやすように抱きすくめてやることで何とか持ち直し、しがみつき続けているというところ。

 「…かんべえ、さま。」

 睦言の代わりか、こちらの名を呼ぶようになれたのも、やっとのここ数日のこと。当初は妙に堅くなってばかりいた彼で、緊張してのことと思われ、
『何も取って喰う訳でなし』
 苦笑混じりにそうと言ってやっても、ただただ耐えている苦しげなお顔しか見せてはくれず。だが、嫌なら逃げ出してよいのだ、一瞥をくれさえすればどうとでも手を止められるという緩さで接していた双腕
(かいな)、一度として振り払おうとしたことはなく。むしろ、どうしていいやらとすがるような眸をするばかり。
「ん…。/////」
 初心者は必ず通ること。思わぬところが炙られ焼かれ、知らず声まで出ることへ、自分がこんなにも淫靡な性であったのかと、そうと誤解しての一際恥ずかしさが増して。淫らな声や乱れた姿、そんなはしたないものを晒すなんてとの抵抗が強まる。そうやってしゃにむに押さ込もうとするから、却って…思わぬ隙から零れた声が笛の音のような悲鳴となり、
「あ、やぁ…っ。////////」
 とんでもない声を上げてしまったと、尚のこと羞恥が増して身の裡
(うち)が煮える。そんな悪循環のそもそもの考え違いを、だが、告げての正してやらぬ小意地の悪さ、のちのちに当人からも責められたりするのだが、
“こうも愛らしゅう含羞まれてはの。”
 それをしみじみ堪能したいと思うて何が悪いかと、開き直った誰かさんだったのは…これまた言うまでもなかったりするのだが。
「ん…。///////」
 すがっていいのだ頼っていいのだと絆
(ほだ)されての少しずつ。必死で噛み殺していた声にも少しずつ、甘やかさが増し。切れ切れになるこらえようにも、余裕が出てだろう、何ともつやのある蜜声を上げて啼くようになった。心地がいいからだろう、キツく寄せられた眉根と裏腹、口許に甘えるような陶酔の様を匂わせて。人によく慣れた甘えネコか、若しくは柔らかな枝をした蔓草のように。四肢を伸ばして懐っこくも嫋やかに、絡みついて来る白く美しき肢体が得も言われず愛おしい。こらえ切れずの艶声が、か細くも甘く蜜を引いての、長々と伸びやかに奏でられ。

 「は…、あ、んぅ…。///////」

 このごろでは、ただ至っただけでは物足りぬとでも言いたいか。乱れた息を整えながら、白い裸身を擦り寄せの、熱に潤んだ瞳で見上げて来。むしろこちらが圧倒されかかる夜もあるほどで。大事ないと言いながら、それでも何かが焼き切れそうな苦悦を舐めはしたのだろ。明かりを落とした薄暗がりの中にもその眸の潤みが光るのは、滲み出した涙が滲んでもいたからで。夜な夜な艶を増してく情人へ、知らぬ間に呑まれてゆく自身であること。だがまだ勘兵衛は、欠片
(かけら)ほども気づいてはいなかった。




        ◇



 体の中に切ない甘さがどんどんと満ちてゆく。清水のようにさらさらとした花蜜に横たわり、全身を浸されているような。手から総身から力が奪われ、萎えてしまう感覚に襲われて。酔って酔いしれて、このまま呑まれてしまうのが怖いと、しゃにむに逃げ出したい気持ちと。それでいて…このまま全部食
(は)まれてしまいたいと願う、いけない気持ちもほんの少し。その鬩ぎ合いで何とか正気を保てているような、もはや頼りないばかりな意識が、熱に煽られてはくらくらと揺らめいて。自分をこんなまで追い上げたそのお人へ、助けを請うよにすがりつく愚を、でも、今はそれと気づけない。

  “…勘兵衛様。”

 今にして思えば“とある策謀”のための布石のようなものだったのだけれど。配属されて間もなくの頃の、唐突ではあったが そのくせ…いつでもいやだと拒絶していいのだぞと言わんばかりに緩い抱擁は。夜伽どころか男女の交歓さえ知らぬほど、とことん晩生
(おくて)だった身に、するすると馴染んでの優しい温みを覚えさせ。あとから全てを聞かされたことで、忘れたころに胸を刺すよな小さな小さな棘を残しはしたものの、

  ―― そんなこと すぐにもどうだってよくなった。

 ただお傍に置いていただけるだけで嬉しい。手入れの悪い蓬髪を邪魔にもせずに、野性味溢れる屈強精悍なお姿を間近に見、風を切って空を翔る、勇壮巧みな刀さばきの呼吸を感じ。どうしても足らぬところを、少しでも埋める役をさせていただけたなら、それだけでもうもう、眸も眩むような倖せに体中が満たされる。お役に立てた、お助けが出来たと、それだけで途轍もなく嬉しい。ついてゆくだけで必死だった、それはそれは冴えて見事な太刀運びや敵刃あしらいにただただ焦がれ。そしていつしか…畏れ多くも番
(つがい)のように、または御主の足元にまとわりつく影のように。ひたりとついての離れず、添うことをこなせるようになれればと望み。そのお背中を任されたおりなぞは、熱に浮かされて見る夢のような、そんな夢中のままに全身で味わう、これぞ二つとない欣喜、喜悦に違いないとさえ思えたほど。

  ―― 知れば知るほど、深く惹かれる愛しい人。

 どんなことででもお役に立ちたいと、思ったし願った。求められることに身が震え、血が騒ぐ。情に厚く、何でも背負ってしまわれる優しいお人。課せられた役目を果たしつつ、冷酷な合理から切り捨てることを余儀なくされた同胞らの、屍は拾えずともその想いだけでもと人知れず背負う人。自分なんか大した助けにはならぬだろうが、それでも、支えたいと思った。……されど、

  ―― 何かを求めたり、期待してはいけない人でもあると、思い知らされもして。

 大切な人だからこそ、お荷物になってはいけない。器の大きな御方、だから自分のような至らぬ存在へも惜しみなく情を下さる。私なんぞがこれ以上の気掛かりになってはいけない、お心まで求めてはいけない。そうと見切れと、忘れるなと、あの棘が囁く。冷酷なお人という意味では決してなく、だが、自分なんぞが独り占め出来ないお人なのだと。だから、傷つきたくないなら諦めなと、卑屈な心が毒を吐く。欲しいからと伸びてしまう手を、だが、勘兵衛様には知られてはならぬ。捨て置いていって下さいと、それをこそ望まねば、優しいあの方はたちまち困ってしまわれる。

 「…あ。////////」

 手のひらの熱さ、まざり合う吐息。熱い肌と充実した体躯の感触に抱き込まれていることを思い出す。何度目かに至ったそのまま、どこぞかへと飛んでた意識が戻って来たのは。やわらかく唇を食まれたそのまま、低いお声が深く響いて、

  ―― シチ、と

 甘く呼んで下さったから。ああ、性懲りもない。果てたはずの、萎えたはずの身に熱がよみがえる。暗がりの中、褪めた深色の双眸が星のように自分を見下ろしている。もう寝るかと悪戯っぽくお笑いなのへ、もはや指一本だって動かせぬほどだのに…どうしてだか“ん〜ん”とかぶりを振ってしまうのは、きっと未練のせい。今少しだけ独占していたいと。自分からこの手を放したくはないと。このくらいならいいでしょう?と、頑是ない童子のような駄々を捏ねて。ああでも、いつだって。このまま すうと吸い込まれるように眠るのが常。大人のこの方に相応しい、余裕もてのお付き合いはまだ遠く。寝物語の茶話を紡ぐなんて、いつになったら出来るやら。今宵も既にうとうとと、瞼が重くなっての降りかかっており。年上の男の雄々しい匂いにくるまれ、そのまま寝ついてしまいかけたのだが、


  がったーーんっっ!!


 あまりに唐突すぎて、何が起きたのかが判らなかった。びくうっと体が撥ねたのは、なけなしの反射神経が働いたから。だが、起き上がりかかったところを、そのまま頼もしい腕が抱きすくめて下さり、
「…勘兵衛様?」
 何か、何が、起きているものか。確かめなくてもいいのですかと懐ろの中という間近から見上げた七郎次へ、それは穏やかな眼差しが受け止めて下さって。
「あ…。////////」
 それこそ場違いにも頬へと血が昇った青年へ、寝かせがてらに着せるつもりだったらしい小袖を広げると、その肩へと羽織らせ、その上から再び そおと抱きしめる。

 「落ち着け。」
 「ですが…。」

 結構な音が立ったその直前も、そして今も。そんな突拍子もないものなんて無かったかのような静謐が満ちているばかりであり。ということは、地震でもなく嵐でもない。となれば、

 「執務室に誰か、居るのではありませぬか?」

 今朝方の、そうあのメモ。どうしてだか、机の上からずんと遠くまで飛んでいた、不審なメモ。昨日今日は大した内容の書類は置いていなかったけれど、時期によっては作戦計画書や運用のための様々な申請書類が手元に集まっている場所だ。それでなくとも厳重な警戒警備がなされているはずの、軍の前線支部内のこんな深部にまで入り込むなんて。尋常な存在とも思えないと、急くように訴えるように囁けば、

 「…そうさな。なかなかの手練れではあるということか。」

 言葉づらはともかく、とほんとした口調でそんなとぼけた言いようを返した勘兵衛であり。何を呑気なと、焦れたように再び身を起こしかかった七郎次だったものの、
「…く。」
 いかんせん、まだ少し…あちこち身が萎えたままであるらしく、力が入らずに倒れ込んだところを、
「…と。」
 御主の頼もしい懐ろへの後戻り、造作なく受け止められている始末だったりし。不甲斐ないと唸りかかったところが、

 「…待てっ!」
 「逃げられんぞ、貴様っ!」

 再び立った大きな音、いやさ声があり。やはり再び、びくくっと肩を震わす愛し子へ、思わずのことだろ、しがみついて来ていた手を今度はそっと外させて、

 「よしか? お主は此処におれ。」
 「…っ、ですが!」
 「その恰好で人前へ出たいというなら止めぬが。」

 止めぬと言いつつ、勘兵衛の視線が妙に冴えていて、いかにも咎める色合いになっていたのも無理はない。昼間の凛然とした姿とは大きく掛け離れ、小袖を羽織っただけという寝起きそのまんまないで立ちだったし、ほんのりとまとった熱の余韻もありありと、妙に色香の増したしどけない姿であったため。これでは確かにみっともないかと鼻白らんだご本人と、果たして全くの同じ想いで制止なさった勘兵衛様だったかは…怪しいものだが。うら若き副官殿をそんな嫋やかな身にした当事者は、今宵は妙に用意のいいことに、寝台間近へ揃えておいでだった制服の上下を手になさると、それらを手早く身につけながら、仮眠室から出て行かれ。その足を迷いなくの真っ直ぐ、外廊下への扉のほうへとお向けになられる。軍靴ではなくの平常靴だが、それでも堅い靴音が立つのを七郎次がせめてと耳で追えば、

 「…勘兵衛様、こやつです。」
 「あ、こらっ。暴れるな、観念せい。」

 滑舌のいい声が上がり、それへと応じるお声こそ立たぬが、足音が止まっての向かい合った気配。一部屋挟んだ格好の、廊下での会話となったらしく、
“今の声は…。”
 この程度の遠さでも聞き間違えることはない、七郎次には馴染み深いそれだと気がついた。肩へ羽織らせていただいた小袖に腕を通し、腰紐を探して手早く着付ける。まだ少しほど体のあちこちが緩く軋むが、それどころではないと気を張って、
「…。」
 そろりと寝台から降り立つと、自分の上着を肩へと羽織って、ゆるゆるとした足取りで勘兵衛が向かった後を追う。此処に残っていよとは言われたけれど、軍施設へと侵入した者、それなりの暴漢である恐れは多大にあったし、それに……。

 “どうして…。”

 恐らくは自分が立てた物音に驚き、執務室からあたふたと飛び出してったのだろう不審者を。間のいいことに廊下で取っ捕まえたは、やはり…島田隊が誇る双璧のお二人、征樹殿と良親殿であるらしく。じたばたと悪あがきしているのを押さえ込んでおいでの模様だが。夜警には内勤に警備課という部署があるのを思うと、むしろ出撃に備えて睡眠を取らねばならぬ彼らが、こんな時間帯こんなところに居合わせたのは合点が行かない。そして、もっと大きな疑問。

  ―― そんな彼らが伏せていたこと、
      先んじて御存知だった勘兵衛様なのではなかろうか。

 いくら戦さ場ではないとはいえ、今にも眠ってしまいかけてた七郎次でさえ跳ね上がったほどの、ああまでの物音への反応が鈍すぎたのがそもそも不審。何で、どうしてという疑念が、されどまだ、形を取れずに曖昧模糊としているそのままに。そろりそろりと歩みを運び、執務室を突っ切って。袖を通さぬ上着が肩からすべり落ちないようにと、合わせを内側からちょいと摘まんでの、辿り着いた扉の陰で、少ぉし体を傾けて、廊下の様子を伺い見ることにする。

 「…に近い恰好だってのはむしろ怪しい。」
 「ああ。大方、見とがめられたら隊士だと誤魔化すつもりでいたんだろうさ。」

 元が図書館だか博物館だか、それは立派な施設だったらしいこの棟は、廊下も大理石でそれはつややかな冷たい代物であり。そこへと引き倒された不審者は、こそ泥の類いにしてはかっちりとした上下を着つけていたらしかったが。恰好だけで誤魔化されるほど、警備課の面々も甘くはないはず。それに、
「少なくとも隊士じゃあないですね。」
「ああ。」
 職務でもないのに執務棟に居合わせるなどと、どっかのずぼらな隊長以外の誰が喜んで居座るものかと…いやその、えっと。そんな先入観からの言では勿論なくて、
「どっかで見た顔なんですよ、こいつ。」
 だから、隊士ではないとの順番で断言しはした征樹殿だったらしいのだが、間者にしてはおどおどし過ぎの、なんとも尻腰のない…ついでに言やあ威勢も足りぬ若い衆。そんな彼の鼻先へ、ごつんと置かれたのが黒々とした機材らしい金物の箱で、
「ともあれ、こんなものを持ち込んだ以上、言い逃れは出来んわなぁ。」
 どこぞの貴公子が行儀見習いに紛れ込んででもいたものか。薄暗がりでもその端麗さが判るほど、端正に整った目鼻立ちの青年士官がにぃっこりと微笑って声をかけて来たのを見上げた男。こちらは優しいお人かとでも思ったか、哀願の何をか言いかかったその間合い。がつごつ・ぐしゃり、めきばきばりばりと、容赦のない破壊音が鳴り響き、

 「あ…。」
 「おお済まぬ。俺は生まれつき足癖が悪うての。」

 録音機ででもあったのか、せっかくの証拠だったもの、踏み潰してしもうたと。分厚い書類袋ほどの大きさだった機材を、コツを得た踏みつけであっさりと粉砕した恐ろしさ。この騒ぎに本来の担当、警備課の誰も駆けつけないあたり、

 “…これって。”

 何とはなく…雲行きというか背景というか、少なくとも今夜ただ今何が起きているのか、やっとのことで察しがついたらしい七郎次が、なんてことだと脱力し凭れかかった扉の向こう、

 「…っ、ああそうだよ。おりゃあ部外者で勝手に忍び込んだもんだよっ。」

 とうとう開き直ったか、押さえ込まれていた輩の不貞腐れたような声が立つ。後で判ったが、この男、総務課に出入りの紙問屋の二代目で。ここから一番近い町、北見の陣に店があり、週に何度か御用聞きにと通ってもいた、言わば“常連”にあたる関係者であり。そんなせいだろか、投げ出すような言い方は、ほのかに攻撃的でもあって、
「先
(せん)の露の月の中頃に、忘れもんがあったんでこっそり取りに来たのがその最初だよ。いけないこととは知ってたが、此処は子供ん時から出入りしていた場所だから、門だの柵だのがどんな厳重だろうと、潜り込む破れくらい心当たりはたんとあるんでな。」
 ふんと鼻息も荒くの大威張りで言ってのけ、
「待ち合いに落としてった雑嚢を見つけて、さて帰ろうかとしたら、どっからか妙に艶っぽい声がしてよ。」
 そんな言いようを零したのへと、

 「…っ。////////」

 その場へ立ち尽くしたまま、さあっと顔へ血が上ってしまった存在が約一名。だって、それってそれって…もしかしてもしかしたら?
「此処の施設がどういう割り振りかなんてのは、さすがに詳しくは知らねぇが。奥まったところは兵舎だろから、それからも遠い本館の奥といやぁ…搬入でだって俺らは入れねぇところ、特別棟だってくらいの目星はついた。」
 こりゃあてっきり、大将格の偉いさんが、金積んでどっかの太夫でも引っ張り込んでのお楽しみかと思ってよ。
「どっから聞こえる声なのか、夜な夜な通ってやっとのことで探り当てたのが、先一昨日の晩だ。」
 立っていたなら胸を張って言ってのけてたような、そんな語調の尻腰の強さへと、
「…お前。」
「いや、ウチの警備課も何やってんだか。」
 双璧のお二人が呆れ返ったのは言うまでもなく。そして、

 「………。」

 もうお一人がずっと黙っておいでなのが、見えない誰かさんには無性に気になったものの。話の成り行きもあって、まさかにここでは出て行けず。

 「〜〜〜。////////」

 何とも歯痒いと、それでも大人しく息をひそめていたところが、

 「そしたらどうだ。男が相手じゃあないかよ。」

 どんな美人と乳繰り合っておいでかと思やと、吐き捨てるように低く笑った彼であり。お坊様や貴族の中にはそういう好みがあるって聞いたこともあったがよ。そんな遠くはないトコに花街だってあるってのに、軍人さんってのはそこまでズボラかねぇ。嘲笑うような口調に変わっての罵倒を繰り出して、
「大方部下に無理強いしてのおもちゃにでもしてたんだろうが、」
 まだ何か続けようとしたその頭、組み敷いての背中へ馬乗りになっていた征樹殿がぺしりと強くはたいて薙ぎ倒す。
「お前、自分の立場が判っておるのか?」
「…。」
 男の言いたい放題へも動じないまま、冷め切った言いようをした征樹殿だったのは、
「言わせてもらえば、鼻で嗤った男同士の同衾とやらで、興奮して扉に張り付いてたのはどこのどいつだね。」
 そんな段階から監視していた、こちらのお二人だったからであるらしく。先程粉々に粉砕した機材の代わり、鼻先へぴらりんとかざして差し上げたのが一枚の即席写真だったりし。
「俺らが焚いたフラッシュに驚いて、あたふた逃げ出したお前さんだったのをもう忘れてる。」
「これ一枚じゃあないし、フィルムで撮った方は引き伸ばせもする。」
 どうやら北見の陣の者らしいが、これをあすこの警邏に渡してどこの誰かを突き止めてもらってもいいんだぜ? 鼻の下延ばしての赤ら顔、手も怪しいところに伸ばしての、こりゃあどう見たって覗きの最中だってのが、男ならすぐさま分かる代物。そんなに恥をかきたいのかとの言いようへ、ふいとそっぽを向いたのは、もはや破れかぶれになっていたからだったのだろうが。

 「お主や家人一同が街中の笑い者となり、恥をかいての終しまいと、
  よもやその程度のことと軽んじて思うておるのではないか?」

 そこへとかかったのが、それまで黙りこくっておいでだったお人の声であり。
「たかだか町の破廉恥な事件と同等に終わると思うておるのが、そもそもの間違いぞ。此処は軍の施設。そこへの不法侵入だけでも獄舎から終身出られぬ重罪となるのが判っておるのか?」

  「…へ?」

「南軍からの間者が情報を盗みに来たか、それとも爆破工作の下見か。お主本人は民間人でも、間者を手引きせんという裏切り者かも知れぬ。」

  「な…っ。」

「公安本部に回されて、我らも及び知らぬ何かしら専門の詮議の恐ろしさにかかれば、そんな生き地獄から早よう逃れたくてのやってもないことへ頷首する者も後を絶たぬという話。どちらにせよ、此処の内部に詳しいと先程自分で言うた剛の者。これは戦さが完全終焉となるその日まで、外へは一歩たりとも出られぬ身となるな。」

  「そ、そんなっ!」

 小難しい四角い言いよう散りばめた言い回しは、だが、一応は民間人でも理解出来よう範囲の語句を、しかもゆっくりと述べてやったので。今度こそは青ざめさせてのその身を凍らせてしまえたようであり、

 「だ、だけどよっ、おりゃあ何も見てねぇんだぜ?」

 ドアの向こうにゃいつも暗幕が降りてて真っ暗だったしよっ、それでも名残り惜しいだけの、そりゃあ色っぽい声がしてたもんだからつい…。

 「…っ!」

 まだ足りぬか、何か言いかけたのを遮ったのが、ばんっという重々しくも大きな物音。居合わせた面々が顔を上げれば、

 「おおシチ。」

 夜目にも白々と浮かび上がった玲瓏な顔容が、仄かに赤くも見えたのは、情事の名残りかそれとも…ふつふつと沸いているらしい憤怒の滾
(たぎ)りのせいなのか。このような恥ずかしいやり取りの大元として、俎上に上がっている睦みの片割れ。これ以上を取り沙汰されるのが聞いていられなくなってのご登場と相成ってしまったらしいとは、征樹殿や良親殿にはようよう判ったものの、

 「お主の尽力あって、これこの通り、侵入者をば捕まえられたぞ。」

 そりゃあにこやかに手柄をひけらかすばかりだった隊長殿の無神経さが、ちょおぉっと度が過ぎてないかと。そこまでを気づいて下さっていたものか、後日の後年、気になりながらもとうとう確かめることは適わなかったのが悔やまれた、七郎次であったらしい。





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